「ラ・ヴェルデ」の焼きスパゲッティ
もう三十年以上前のことになるが、イタリア料理屋の「ラ・ヴェルデ」が竹下通りに出店する前、原宿通りに小さな店を出した。場所は鰻屋の「松よし」の並びで、もっと渋谷寄りだった。 客席は五、六席しかなく、亭主が一人で茹で加減の良いスパゲッティを食べさせた。ボンゴレやカルボナーラのほかに焼きスパゲッティというものが名物で、卵とチーズをたっぷり使う。私はそれが好きだった。
もう三十年以上前のことになるが、イタリア料理屋の「ラ・ヴェルデ」が竹下通りに出店する前、原宿通りに小さな店を出した。場所は鰻屋の「松よし」の並びで、もっと渋谷寄りだった。 客席は五、六席しかなく、亭主が一人で茹で加減の良いスパゲッティを食べさせた。ボンゴレやカルボナーラのほかに焼きスパゲッティというものが名物で、卵とチーズをたっぷり使う。私はそれが好きだった。
瀬見温泉のやや上流に「やな茶屋」という食堂がある。
ある日、床屋へ行った帰りに川っぷちをブラブラ歩いていたら、番頭さんとパッタリ会った。車で「やな茶屋」へ連れて行ってくれた。
カジカの田楽焼と岩魚の塩焼きで昼酒を飲み、最上の地粉を使った十割蕎麦を食う。蕎麦はべつに短くはなく、薄緑色で、歯ごたえがあって、仲々良い。
浅草の田原町に「花家」という古い店があり、焼そばと稲荷鮨を売っている。焼そばは典型的な縁日の焼そばで、キャベツすらロクに入っていないが、なつかしい感じがする。
ラムネを飲みながらそんなものを食べていると、子供の頃の浅草を思い出す。
麻布の防衛庁の近所に、かつて「狸穴(まみあな)蕎麦」という店があった。
東京の蕎麦屋の名店の一つで、私はここへ来ると、蕎麦寿司をつまみに枯れ寂びた庭を見ながら酒を飲んだ。ここの蕎麦寿司は干瓢巻きのシャリのかわりに蕎麦を使った、いわば蕎麦の海苔巻きだった。
昔、O沢さんが代々木ゼミナールの新潟校に転勤になったというので、幻想文学会の会長らと会いに行ったことがある。
昼飯どきで、学校の近くの小千谷そばの店に入った。
「へぎそば」というものを食べたのは、あれが初めてだった。
昔、わが家でつくったすいとんは実に不味かったが、最近旅館などで出す物は仲々良い。
南千住コツ通りの「満留賀」は何の変哲もない下町の蕎麦屋だが、今は珍しくなった「小田巻蒸し」がある。茶碗蒸しの底の方にうどんが少し入っているのだが、仲々美味い。茶碗蒸しの器よりももう少し平べったい、独特の器を使う。
法事などで需要があるとか。
以前鳴子温泉にあった「きょう太」では、鬼首の地粉を打ったそばを食わせたが、実に良かった。
一度、ここの旦那と一緒に中山平へ行って、温泉旅館の中にある蕎麦屋に入ってみた。そこも仲々だった。
以前、白石の鎌先温泉に「青木食堂」という店があった。品の良い、キリッとした感じの女将さんがやっていて、うーめんや焼肉定食を出し、酒も飲ませた。壁には一面に古いコケシが並んでいた。
ここのうーめんは茹で加減が良く、町の蕎麦屋よりも腰がある。
焼肉は豚だったが、御飯が驚くほど美味だった。
帰りにタクシーの運転手にその米の話をすると、鎌先あたりの田圃は白石でも美味い米がとれるのだという。その時分はササニシキだったが、近頃は品種が変わって、以前ほど私の口に合わない。
近頃の日本人は日本語が不得手であるから、加熱した酒はみんな熱燗だと思っている手合いが多い。しかし、中にはこんなこともある。
以前、M円さんとN沢君と小樽の「藪半」という蕎麦屋で昼酒を飲んだ。ぬる燗を頼み、帳場に向かって「お代わり」と言うと、注文を取った人とはべつの若いお嬢さんがふり返って、
「ぬる燗でしたね」
と言ったので、感激した。彼女は自分が受けたのでもない注文を、燗の加減まで憶えていたのだ。
この店は、もちろん蕎麦も美味かった。
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